3・11からまもなく半年になります。 被災地の復旧・復興がなかなか進まず、未だ多くの被災者の方が苦しんでおられることに心が痛みます。
政府・与党の対応全般に失望を覚えている方は、それこそ被災地のみならず全国に大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
一方で、被災地において自衛隊、消防、警察、地元行政、ボランティア等々が行ってきた災害支援活動はめざましいものでした。
特に自衛隊は約2万人の人命を救い、約1万体のご遺体を収容し、約3万トンの水と約500万食の食事を支援するなどしました。
が、彼らの奮闘は、こうした数字だけでは推し量ることができません。
1カ月ほど前ですが、「SAPIO」8.17/24号でこんな特集が組まれました。
■【日本人が忘れてはいけない「3・11後」を支えた人々の「奮闘の記録」】震災と闘う自衛官が「背負うもの」〈120人の証言〉
東日本大震災の現場で奮闘された自衛官の方々120人の証言が掲載されています。
匿名の方もおられますが、多くは実名での証言です。
今日はこの特集の中から、私が特に感動を覚え、皆様にぜひお伝えしたいと思ったエピソードを1本紹介します。
被災した子供たちが自衛隊員に送った感謝の手紙がテーマです。
※起こしで引用した画像は、「うみ」ちゃんの手紙を除き全てこちらでセレクトしたイメージ画像です(但し、いずれもその土地の物です)。
起こしここから____________________________
<触れ合い>
家族を失いつつも、小さな手が綴ったエール
「お母さんを見つけてくれてありがとう」少年が送った感謝の手紙が自衛隊を鼓舞した 石井宣広3曹 陸上自衛隊 第14旅団 第14戦車中隊
末吉洋明1佐 陸上自衛隊 第9師団 第21普通科連隊
石巻を襲った津波による最大の悲劇の一つが大川小学校の壊滅だった。石巻市立大川小学校は、児童108人のうち74人が死亡または行方不明となった。学校周辺や校舎内では、自衛隊による必死の不明者捜索が行なわれ、瓦礫や汚泥が取り除かれた。そして震災から約1か月後−−。
「すいません!」
4月6日、大川小学校近くの追波川河川運動公園に設けられた宿営地内を歩いていた第14戦車中隊(岡山)の石井宣広3曹は、突如、背後から声を掛けられた。
その可愛らしい声の主は、ワンピースを着た小さな女の子だった。少女は、振り向いた石井3曹にこう言った。
「これ、読んでください……」
石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。少女は、母親と思しき� �性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹に手紙を渡したのである。
十代の偽オルガズムを行う
そこには、覚えたてのたどたどしい文字でこう綴られていた。
≪じえいたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんががんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
うみより≫
石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。
「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」
その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。
井上旅団長は言う。
「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲(みなぎ)ってきましたよ。うみちゃんは、 どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」
少女が自衛隊に寄せた『日本をたすけてください』という切実な祈りに全員が奮い立った。中には、手紙のコピーを手帳に挟んで災害派遣活動に励む隊員もいた。加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼りつけられた。
東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだに行方不明の6人の児童の写真もあった。
その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を探し続けていたのである。
毎朝出かけていく自衛隊を児童たちは見ていた
「自衛隊員の皆さんのお母さんやお父さんも被災されたと思いますが、それにもかかわらず、僕たちのために釜石まで来て頂いて、とても嬉しかったです!」
釜石市立甲子(かっし)小学校で児童会長を務める川村直輝君は、第21普通科連隊の隊員に対し、感謝の言葉を述べた。
陸自第9師団隷下の第21普通科連隊は、発災翌日、秋田県秋田市の駐屯地から釜石に駆け付けた。人命救助をはじめ、持てる力を総動員して、あらゆる支援活動を実施した。
その宿営地となっていたのが釜石市立甲子小学校だった。
上野泰宏副校長は言う。
私はちょうど彼と別れるべきである
「この学校には、被災した子どもたちや被害の大きかった地区から転校してきた子どもたちがいます。そんな中で、自衛隊が自分たちの街に災害派遣のために毎朝出かけていくことに、頼もしさを感じたのではないでしょうか」
だが、300〜400人の部隊が2か月を超えて小学校のグラウンドに居続けることには、子どもたちの体育授業に影響しかねないと判断した連隊長・末吉洋明1佐は、道路を挟んで向かいの甲子中学校へ宿営地を移動させることにした。
末吉1佐とその幕僚が2か月間、宿営させてもらったお礼のために菊池清太校長を訪ねると、そこには児童を代表して児童会長らが待っており、前述のように感謝の言葉を述べたのだった。さらに菊池校長からは、6年生と5年生の児童全員が書いた、感謝の手紙が手渡された。
末吉1佐は回想する。
「これには驚きました。我々がやってきたことが、こんなにも多くの子どもたちに感謝されていたとは。同時に、子どもたちにそう思わせた隊員たちを心から誇りに思いました」
� ��手紙の一部を紹介しよう。
≪ぼくはさいしょは、もうしぬ。ぜったいしぬと思っていました。でもじえい隊のヘリや車をみるたびになみだがでました。ぼくはそのとき「釜石のためにがんばっているんだな」と思いました。ほんとうにありがとうございます≫(5年男児)
≪わたしたちの住んでいる釜石を助けて下さりありがとうございました。お体に気をつけて下さい。この手紙を読んでいやなことがふっ飛んでくれたらうれしいです≫(6年女児)
≪よくニュースで、自衛隊のみなさんが必死でがれきのてっ去や、い体のそうさくをしているすがたを見ています。今のような生活にもどれたのは、自衛隊のみなさんのおかげだと思っています。釜石のために頑張ってくださって、本当に感� �しています≫(6年男児)
≪ぼくは人を救うことはまだできませんが、おおきくなって、またこのようなことがおきたとしたら、人を助けられる自衛隊になって人を助けて、ぼくも釜石を守りたいです≫(5年男児)
後日、本誌の取材の案内で末吉1佐が小学校を訪れると、子どもたちがワッと駆け寄ってきて、まとわりついて離れなかった。そして一人の男児が、「おんぶ!」と言うなり末吉1佐の背中に飛び乗った。すると、「わぁーずるい!僕も!」と、子どもたちが背中を取り合ったのだった。
第21普通科連隊に寄せられた感謝の手紙は、甲子小学校の児童からだけではない。
釜石市鵜住居(うのすまい)町も津波ですべてが流され、あたり一面、瓦礫の山となったが、その鵜住居地区では、小さな男の子から感謝の手紙が寄せられた。
理解することは彼女がキスしたくありません
≪じえいたいのみなさんへ
みゆりちゃんとお母さんを見つけてくれてありがとうございました。これからもおしごとがんばってください。おうえんします≫
家族を失いながらも、その小さな手が、自衛隊に感謝のエールを綴ったのである。
「男の子からの手紙は、我々の行方不明者捜索や被災者支援への決意を新たにしてくれました。我々は、釜石の方々を家族同然と考えております。ですから、避難者の方々への生活支援は、家族にそうするように、行方不明者捜索は、家族を捜す気持ちで取り組んでいるのです」(末吉1佐)
第21普通科連隊もまた、子どもたちの手紙に奮い立ったのである。
____________________________起こしここまで
石巻市の「うみ」ちゃんの手紙は一部メディアでも報道されましたが� ��私が調べた限り、釜石市立甲子小学校の子供たちの手紙については「チャンネル桜」8/18放送分が取り上げただけで、釜石市鵜住居町の男の子の手紙については「SAPIO」が初出のようです。
↓「チャンネル桜」8/18放送分より。
同号には、他に、例えばこういったエピソードも掲載されています。
■遺体捜索自衛官 遺体女性の身体を男性の目から隠すため服直す
女性隊員ならではの気遣いに、同じ女性として心が震えました。
このような自衛隊の奮闘ぶり、とりわけ被災者の方々との心の触れ合いというものがあまり報道されない日本のメディアにあって、この「SAPIO」8.17/24号はまさに永久保存版です。
古い号なのでもう書店には並んでいないと思いますが、今日現在アマゾンにはまだ在庫があります。
興味を持たれた方は、ぜひお買い求め下さい。
【追記9/11 23:30】アマゾンの在庫は9/10午前中で無くなってしまったようです。版元の小学館には今現在まだ在庫があるようです。こちらから注文できます。(コメント欄で情報下さった皆様ありがとうございました)
それにしても、今回の自衛隊の活躍を見て「大きくなったら自衛隊に入りたい」と思った子供たちは、被災地に大勢いるでしょうね。
↓この男の子もその一人のようです(上記「SAPIO」記事とは無関係です)。
被災したこと、それ自体はもちろん彼らにとって大変不幸な出来事だったと思います。
が、その辛い体験は彼らの今後の人生への大きな糧となるでしょう。
やがて故郷を背負って立つことになるであろう被災地の子供たち。
彼らは日本全体にとっても希望の光であり、宝物なのだと、私は感じずにはおれません。
※拙ブログ関連エントリー(震災関連から抜粋)
・3/15付:【東日本大震災-1】外国人から見た日本と日本人(22)
・3/22付:【東日本大震災-2】外国人から見た日本と日本人(23)
・3/28付:【東日本大震災-3】外国人から見た日本と日本人(24)
・4/2付:天皇皇后両陛下が避難所ご訪問 このような方々を戴けた日本人の幸運
・4/4付:独特の災害史観を持つ日本人は何度も立ち向かい乗り越えてきた
・4/16付:【東日本大震災-4】外国人から見た日本と日本人(25)
・4/23付:画像で見る東日本大震災 - 希望 -
・4/25付:【東日本大震災-5】外国人から見た日本と日本人(26)
・5/2付:3月11日に天皇皇后両陛下がなされた事
・5/21付:-言葉の力 - PRAY FOR JAPAN&朝日新聞縮小版東日本大震災
・6/6付:【東日本大震災-6】外国人から見た日本と日本人(27)
・6/18付:保守系識者諸氏が見た震災(2)
・7/11付:【東日本大震災-7】外国人から見た日本と日本人(28)
・8/6付:【東日本大震災-8】外国人から見た日本と日本人(29)
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■「お気楽くっくり」更新済
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